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いくら青くても、空は盤ではない 朱空 |
ノックをしてから、入るよ、と声をかける。ノブの金属がひんやりと手に吸い付く。たぶん、これから入る部屋の空気のほうが冷えている、とぼくは思う。 部屋の奥のベッドに上半身だけを起こして、妹は本を開いていた。開け放った窓から流れてくる夏の風が、長い黒髪を撫でていた。レースを透かした白いひとむ れの陽光が、彼女を陽だまりの池に沈めていた。美しいと思った。この一瞬の光景を切り取って絵画にできるといわれても、ぼくは拒否するに違いない。かたち にしなければ、永遠にぼくのものだ。たとえ記憶でしかないとしても。 「返事をする前に入ってきちゃったら」視線を本に落としたまま、彼女は言った。「ノックの意味はない」 「ああ」後ろ手にドアを閉めてから、ぼくは答えた。「そうだね。そうだった」 「謝罪はないんだね」 「うん」 「まあ、いい」 広すぎる部屋に、豪華すぎるベッドが置かれている。静かすぎる世界が演出されている。意図的に。意識的に。底知れぬ悪意によって。 サイドテーブルに乗っている水差しは、たぶんサラリーマンの平均月収より高い。でたらめな価格に、でたらめな状況。金が回っている。こんなに清潔なのに、どこか汚れている。下手な病室よりも手入れの行き届いた部屋には、だからこそ人のにおいがない。 窓を開けているのだから、室温は外気と変わらない。なのに、ひどく肌寒く感じる。錯覚だと知っているから、余計に怖い。なんだってそうだ。ないはずものがあるよりも、あるはずのものがないことのほうが、おそろしい。 「なにを、読んでいるの?」と問いかけながら、ゆっくりとベッド脇に近づく。彼女の視線がようやくこちらを向く。微笑みかけると、これ見よがしにため息を吐いて、本の表紙を見せてくれた。 「デュマ・フィスか」ぼくは頷いて、たどり着いた椅子に腰掛けた。「悪くないな。『椿姫』はいい小説だ」 「そう」彼女は一秒くらい沈黙して、本を差し出してきた。「じゃあ、あげる」 「読まないの?」 彼女はかぶりを振った。それは、とても芸術的な運動だった。彼女ほど綺麗にかぶりを振る人類は存在しないだろうという気がした。仮にいたとしたら、それはもう人類ではなく、綺麗にかぶりを振る人類、という新しい生物に違いなかった。 「まだ読み終わってないんだろう?」とぼくはたずねた。「それはいい本だよ、読んだ方がいい」 「読む気がなくなった。いま。たったいま」 「それは不幸なことだね」そこで、ぼくは一拍置いた。「君にとっても――デュマ・フィスにとっても」 「知ったことじゃない」 半袖から突き出た細い腕は、寝間着と同じくらい白かった。静脈を透かした顔はさらに白く、むしろ青いくらいだ。彼女を基準に考えるならば、肌色という言葉はなくなるだろうと思った。 太ももから下を覆う布団も、やはり白かった。先ほどから風を孕んで膨らんでいるレースのカーテンも、眩いくらいに白かった。怖いほどに黒いのは、彼女の瞳と、髪だけだった。 潔癖すぎた。異常なほどに整理されていた。だからこそ正常に、ここの空気は流れている。そういうふうになっている。 空調は切ってある。窓も開いている。日盛りの午後だ。体感とは裏腹に、ぼくの肌にはもう汗が浮いている。なのに、彼女に汗の気配はなかった。美しい顔と可憐な体躯の代わりに、神は彼女から汗腺を奪った。 人間らしい機能を、ひとつ。 誰かの命と、一緒に。 「それで」と彼女はベッドから腕を伸ばして、ぼくの頬に触れた。冷たかった。ドアのノブより、ずっと。「今日はなにか用事があるのかな」 「ない」とぼくは即答した。「正確にはあったんだけど、もう終わった」 「なにを言ってる?」と彼女は首をかしげた。「せめて英語かフランス語かドイツ語か日本語で喋ってくれるかな」 「君、ドイツ語は苦手だろうに」とぼくは笑った。「会いに来たんだよ。顔を見にきただけだ。だから、もう用事は済んだ」 「そう」と彼女は手を引いた。「なら、もう帰る?」 「帰らない」 「どうして?」 「さあ」とぼくは首をかしげた。「空が青いからじゃないかな」 「はじめて聞いた」と彼女は嘆息した。「そんな、下らない台詞は」 「だろうね」 「帰らないのなら、チェスがしたい。指せる?」 「それなりに、強いよ」とぼくは言った。「盤と駒さえあれば」 「そういえば、そんなことを聞いた覚えがある」と彼女は満足そうに頷いた。「盤と駒。両方ともそっちの引き出しに入ってる」 「それで?」 「それで?」と彼女は眉を寄せた。「盤にも駒にも、足はない。歩くことはできない」 「それは良かった。歩くチェス盤があったら、テレビ局に売りつけたくなる」 「ねえ」と彼女はため息を吐いた。「あなた、わたしを怒らせたいの?」 あなた、といういびつな呼称を受け止めながら、ぼくは笑った。「泣かせるよりは、そっちのほうがマシかな」 「もういい」と彼女は髪をかきあげた。「はやく取ってきて。盤と駒を、ここに」 ぼくは立ち上がって、チェス盤と駒の入ったケースを引き出し、サイドテーブルに置いた。水差しを慎重に床に降ろして、駒を盤上にばら撒いた。たぶんこれら も高級品だろうと思ったけれど、頓着はしなかった。馬や城や王様に象られた駒たちは、所詮ぼくらの手がなければ動くことはできない。どれだけ高くても、足 がないからだ。 それでも、とぼくは思う。 足のある駒のほうが、足のない駒より、よっぽど無惨だ。 陰惨で、卑猥で、汚濁にまみれて――下品だ。 彼女の指がゆっくり伸びてきて、盤上をすべった。彼女は黒い駒を選び、ぼくは白い駒を選んだ。お互いの駒を初期位置に並べながら、ぼくは唇を噛んだ。彼女 の指は細く、白く、清潔で、美しい。でも、同じ盤にあるぼくの指は、短く、爪が黒く汚れていて、第二関節の下に細かい毛が生えていて、醜い。 黒い駒に白い指。白い駒に黒い指。めまいがする――吐き気がする。気分が悪い――機嫌も悪い。誰が悪い――ぼくが悪い。 ……ああ……空が――青い。 つと、指先が触れ合った。対比が浮き彫りになった。鮮烈に、残忍に、そこに告発が爆ぜた。ぼくの顔を見上げて、クイーンがにたりと笑う。声が聞こえる。おまえは偽物だ。女は本物だ。だからおまえらは別物だ。 そうだよ、とぼくは視線を彼女に向ける。似ていない、と思った。違う、と思った。似ていないのではなく、完全に異なっているのだ、と思った。そうだ。ぼく は偽物だ。だからぼくたちは異なっている。だんぜん、異なっている。ぼくと目の前の妹とは、同じところはひとつもない。 当たり前だろう、とぼくはクイーンに向かって呟く。血が繋がっていないんだから。 「先攻は、どうする?」と妹が――違う、とぼくは首を振る。 あ、あ、あ。ぷつり、と断線する。落ち着け。ぷつり、と断線させる。なかったことにしようとする。いまのシーンを記憶から消そうとする。もう一度、とぼくは考える。意識しないで、もう一度言葉を。もう一度、正しい言葉を――かちり――再構成する。 「先攻は、どうする?」と彼女が言った。それでいい、とぼくは思う。ルール通りなら、と彼女が続ける。「白から――あなたからだけど」 「かまわないよ。お好きにどうぞ」とぼくは答える。「ルールなんて、無視すればいい」 「じゃあ、わたしから」 音もなく指が動いて、ポーンが一歩前に出た。黒い駒からは、死のにおいがする。そういえば、彼はいつも黒い駒を使っていた。だから彼女も黒い駒を使うの か。じゃあ、彼と彼女が指すときはどうしていたんだろう、と思う。ぼくは彼女を見て、口に出しかけた言葉を呑んだ。そのベッドも、彼が使っていたものか い、という言葉を呑んだ。クイーンがまた笑う。いやらしく。白い駒から、真っ赤な舌が出ているように見える。ちろちろと、舌先が焔のように揺れる。 一度目を閉じて、幻覚だ、と言い聞かせる。 彼と指すと、いつもぼくがチェックした。何度指しても同じだった。彼は弱かった。でも、彼女とははじめてだ。彼が弱かったからと言って、彼女が弱い理由はない。たとえ血の繋がった妹であっても、チェスの腕前までが似るわけではない。 でも、面差しはよく似ている。彼と彼女はよく似ている。気持ち悪いくらいに似ている。そっくりだ。似ている。似ている。同じように綺麗な瞳。同じように白い肌。同じように、弱い体。 似ている。 ぼくが自軍のポーンを摘み上げたとき、彼女が小さく声を上げた。 「どうしたの?」とぼくは顔を上げた。 「罰を決めよう」と彼女は手を打った。「罰を決めなくっちゃ、おもしろくないから」 「そうだね。ゲームに罰はつきものだ」とぼくはうなずいた。「なにか、提案はある?」 「そうだね」と彼女は顎に手をやった。「相手の言うことを、ひとつだけ必ず聞く、っていうのはどう?」 「悪くないな」ぼくはふたたびポーンを摘み上げて、ひとマスだけ前進させた。「それでいこう」 「必ず、だよ。なんでも、なにがあっても、必ず」 「いいよ、わかった。――それじゃあ、再開しよう」 ぼくの手が離れると同時に、彼女は次の一手を出した。ぼくもすぐに駒を動かした。一秒の思考もない指しあいが、三度続いた。 「いいのかな、そんなに適当に指して」と彼女は言った。「わたしの罰、厳しいよ」 「長考するタイプじゃないんだ」とぼくは答えた。「厳しい罰って、どんなのかな?」 「死んでもらう」と彼女は笑顔で答えた。「あなたに、死んでもらう。自殺してもらう。すぐに」 かつん、と甲高い音がした。彼女の指が、ナイトを動かしていた。盤と駒がぶつかりあう音が、不気味なくらい大きく響いた。かつん。かつん。かつん。同じマスを何度も踏みつけて、黒のナイトがぼくを真正面から見つめていた。ナイフを喉元に突きつけられた気がした。 「本気かい?」とぼくは訪ねた。それから、自軍のビショップを進めた。 「もちろん」かつん、と彼女のポーンが迫る。「あなたはなにを望むつまりかな、わたしに」 「そうだね」とぼくもナイトを出す。かつん。「ぼくを認めてください、かな」 「気持ち悪い」と彼女はルークを出す。かつん。かつんかつんかつんかつん。「怖気が走る」 それには答えず、ぼくはポーンを進める。「彼は弱かったね、チェス」 「彼?」かつん。 「君のお兄さんだよ、本当のね」かつん。 「兄さまは、あなたしかいない」かつんかつんかつんかつん。 「今はね」とぼくは笑う。怖くて指先が震えている。か、かつん。「でも、むかしはいたじゃないか。ちゃんと、血の繋がった兄さんが」 「覚えてない」かつんかつんかつんかつんかつんかつんかつんかつん。「ぜんぜん、覚えてない」 「嘘だね。覚えているはずだ」かつん。「死んじゃったって、記憶は残る。嘘をつくなよ。下手な嘘を」 「うるさい」かつん。 「彼が死んでなければぼくはいなかった。君とぼくは他人だった。でも、いまこうなっている。なぜかって?」かつん。「彼が、死んだからだ」 「うる――さい」かつん。 「病死だってね。仕方がない。病死ならどうしようもない。いくら金があったって、いくら前途があったって、どんなに素晴らしい御曹司だって」かつん。「ひとは、簡単に死ぬ」 「黙りなさい」 かつん。 「承知しました」とぼくは笑う。「お嬢様」 かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。参ったな、とぼくは思う。かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。勝てない。かつん。かつ ん。かつん。かつん。かつん。かつん。強い。かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。かつん。彼女は、本当に強い。かつん。かつん。かつん。かつん。か つん。かつん。 か、か――つん。 「次でチェック」と彼女が言う。 「逃げ場もないね」とぼくが答える。 「どうする?」と彼女が言う。 「どうしようもないね」とぼくが答える。 「死ぬのが怖くないの?」 「怖いよ。ぼくだって、ロボットじゃない。人間だからね」 「代わりなのに?」 「代わりだって人間だ。養子とロボットは違う」ぼくはビショップを動かして、最後の抵抗をする。「でもまあ、仕方がないね。君がぼくを嫌うのはわかる。ぼくはこういう家にふさわしくない」 「嫌ってはいない」かつん、と彼女が最後の一手を指すべく、ナイトを持ち上げる。「ただ、認めたくもない」 「跡取りなんて、君でいいじゃないかと思うんだけどね。男じゃなければならないっていうなら、娘婿でいい。どうして養子じゃなきゃいけなかったのか、ぼくにはそこがわからない」 「お父様は、わたしが嫌いなんだよ」と彼女は手を震わせて呟いた。「わたしじゃあ、兄さまの代わりは無理だと思っているみたい。わたしが結婚する相手にも、任せたくはないって」 「ああ、なるほど。考えてみれば簡単だね」刈り取った敵のビショップを手中でもてあそびながら、ぼくは頷いた。「それで、ぼくか」 「あなたのことは、むかしから気に入ってた」と彼女は悲しそうな顔をした。「兄さまから話を聞いて、何度か顔もあわせて。いい友達だなって言ってた」 「光栄だね」とぼくは笑った。「くそくらえ」 「どうして、引き受けたの?」と彼女は言った。「断ればよかったのに。こんな家の話なんて」 「断れなかったんだよ」とぼくは彼女の頭に手をやって、ゆっくり撫でた。まだ、ぼくと彼女が他人だったときと同じように。ぼくが彼の代わりではなく、彼の友達だったときと同じように。「お金と大人を前にしたら、ぼくたちは無力だ」 「そう」 「ところで」とぼくは盤を指先で叩いた。「その手、いつになったら指すのかな」 「ねえ」 「なに?」 「死ぬのが、怖くないの?」 「怖いよ」 「だったらどうして、平気な顔をしているの?」 「ぼくは死なないから」 「約束は守るものよ」 「知ってるよ。負けたら死ぬよ。でもぼくは死なない」 「どうして?」 「だって君は」とぼくは笑った。「そのナイトを、指せない」 「最低ね」と彼女は手を止めた。「罰を、変更しない?」 「だめだ」とぼくは言った。「ぼくを殺すか、君が負けるか、どっちかだ」 「最低ね」と彼女は繰り返した。それから、ナイトを窓から外に放り投げて、三回まばたきをした。「降参」 「約束は守るものだよ」 「わかってるわよ」と彼女は笑った。清々しく。「兄さま」 妹にはしたくなかった。だけど、そうするしかなかった。これがベストだった。 ぼくが死んで、彼女も死んで、という選択肢もあるにはあった。それはそれで幸せだったかもしれない。だけど、ぼくは選ばなかった。選びたくなかった。 「むなしいね」とぼくは言った。「なんだか、むなしい」 「いまさら気づいたの」と妹は笑った。「わたしはずっと気づいてたのに」 「勝ったらむなしい。負けたら死ぬ」とぼくは笑った。「チェスを持ち出された時点で、ぼくは負けていたのか」 「あのとき、帰っていればよかったのよ」 「それはそれで、うまくはいかない」とぼくは呟いた。「よくできた罠だ」 「まあね。でも――わたしも負けよ」と妹は指先で髪を払った。「勝ったら寂しい。負けたら切ない」 「意味がないね」 「世界のほとんどは、意味がない」 「違いない」 なのに、地球は青い。なんだかそれは――とても理不尽だ。 「本当は、チェスの前にすべて決まっていたのかな」 「そうね」 「反則だよね」 「なにが?」 「勝者がいないんだよ」 「そんなこと、たくさんあるわ」 「結局、ぼくらはいろいろなことに負けたわけだね」 「そうなるわね」 「じゃあ、ぼくは帰るよ」と腰を上げて、妹にキスをした。「また来る」 「兄様」と妹がクイーンを投げつけてきた。「死んでください」 「今度、負けたらな」 ぼくはクイーンを踏みにじって、扉に寄った。ぱき、といやな音がして、駒が砕けた。ようやく、とぼくは笑った。ようやく、ひとつ。 振り返った。部屋は白く、妹の顔は少しだけ赤い。 夕焼けにはまだ早い。 (了) |